しばらくして扉が開いた。聞きなれた足音共に聞きなれた声に呼びかけられて嵐は顔を
上げた。
「…………嵐」
 中にはいってきたのは夕香だった。眠っている月夜を見てため息をついて、夕香は端座
した。
「どう?」
「さっき起きてまた寝た。なんか、未来予知の力まで発現してるみたいだが、どうなんだ?」
 そんなこと言われてもと夕香は呟くと蒼褪めたその寝顔をそっと撫でた。狸が扉からと
ことこと来て嵐の膝の上に乗った。胡座をかいている嵐はその狸の毛並みを撫でて溜め息
をついた。
「大丈夫だ。ただ、貧血なだけだからな。すぐ起きるだろう。じゃ、俺達は隣の部屋にい
るから」
 そう言うと狸を胸に抱いて部屋を出た。必然的に部屋にいるのは月夜と夕香だけになる。
「やっと出て行ったな、狼」
 突然声がして驚くと月夜は体を起こしてからからと笑った。
「もう平気なんだよ、兄貴の薬は三日寝てれば大抵のものは治る。万能薬だからこんな奥
まった所にすんでるんだ」
 普通に起き上がって腕をくいくいと動かしている月夜に夕香は何も言えずにいた。只の
から元気だが、夕香の蒼い顔を見て月夜はそうせずにいられなかった。月夜が首を傾げ夕
香は拳を握る。何もいえないでいる夕香に月夜は立ち上がって伸びをして夕香を立ち上が
らせた。
「すこし、外に出て話そうか」
 そう言うと口の中で何かをつむいだ。自分自身に何か術でもかけたのだろう。その顔は
蒼い。
「兄貴、外出る」
「わかった。見つかるなよ?」
「ああ」
 片手をひらひらさせて夕香を伴なって外に出た。そしていつもの丘に行くと月夜は腰を
下ろして片膝を上げて座った。夕香は立ったままでいる。
「……白空の声が聞こえたんだ」
 不意打ちのその声に夕香は目を見開いた。月夜はその反応を見ずにただ続ける。
「恐らく俺とお前のトレースの糸を渡ってきたんだと思う。もしかしたら、お前の兄さん
を助けられるかもしれない」
   ――お前の兄さん。
 その単語に夕香はピクリと反応した。ゆっくりと拳を握り締めている夕香の手にそっと
触れて座らすと夕香の目を見て言った。
「俺は、お前の兄を殺す気はない。妖によって起こされたことだからな。しかし天狐が禍
津霊に憑かれるというのは聞いた事がないが」
「兄さんは禍津霊に?」
 気づいたら声が、言葉がでていた。月夜はふっと優しげに小さく微笑んで目を伏せる。
「ああ。はっきり分かった。多分最近になって自我がおきたのだろう。俺の父を殺した辺
りから今までずっと憑かれっぱなしだ。まあ、だからと言って減罪されるわけでもないが
祓うに越した事はないだろう。九尾になっているのは神気が濁ってしまっているからであ
ろう。今度やりあうときにどうにかする」
 そうきっぱり言うと俯いている夕香の肩を引き寄せて抱き締めた。夕香の肩がこわばる。
「お前が気にすることではない。俺のことも、何もかも」
「でも、月夜をやったのはあたしで」
 そのときの感触は生々しく手に残っている。あのぬるりと中に別け入っていく感触と、
暖かな血が手を、地面をししどに濡らし真っ赤に染まった大地も、あの時このことは忘れ
られない。
「まあ、そうだわな。確かに、俺はお前にやられかけた」
 その言葉にピクリと体を振るわせた。月夜は夕香を覗き込んでいたずらっぽく笑った。
「でも、俺がここにある」
 そっと引き寄せて左胸に夕香の頭を抱く。優しいその温もりに夕香は我知らずに頬を摺
り寄せた。そうするといつもと同じ様に力強い鼓動が聞こえた。その問いに首を縦に振る
と月夜はそっとその柔らかい色の長い髪を撫でた。
「だろ?」
 その声が笑みを含んだ。優しくその髪を撫でて夕香をいとおしげに見た。ここに帰って
きてよかった。
「なら、別にいいじゃないかよ。刺した時の感触を忘れられなくてもいい。いつかは忘れ
る物だろ。それに刺された人がここにいるんだから別に気にするなよ」
 楽観的に月夜は言うと夕香の髪から背をなでた。慈しむように抱いていた月夜は動かな
くなった夕香を見て首をかしげた。その背はゆっくりと動いている。顔を見てふっと笑っ
た。夕香は眠ってしまっていた。そんな寝顔を見る月夜の眼差しは今までにないくらいに
優しげで夕香への愛しさに満ちていた。
「気にするなっていっても気にしてしまうものだけどな」
 自分で言った言葉に月夜は自嘲の笑みを深く浮かべた。そして、夕香がおきるまでその
膝を貸していた。胸の布が湿っているのを無視して、ただ、愛しい人の存在を感じて。
 そして、夕香がおきると、月夜は屋敷に帰ろうと誘った。本当は夕香をおぶって帰りた
かったのだがさすがにそこまですると体がもたない。そう判断しての事だった。屋敷に帰
ると莉那と嵐が風に当たっていた。
「お二人そろって。ここでなにしてんだ?」
「さあな」
 肩をすくめた嵐に月夜は溜め息をついて夕香をちらりと見て夕香と二人で肩をすくめた。
「空気が丸くなってる。コミュニケーション重視のようだな」
 ふいに嵐が言ってきた。その言葉に二人で面食らった顔をしたのも、それに互いが気づ
いて笑みをこぼしたのも、同じ瞬間だった。月夜の瞳の中に何かいたずらっぽいような意
地の悪いような光が宿っているのは気のせいだろうかと夕香は次の月夜の言葉を待った。
 その期待を裏切らない言葉を言ったのはいうまでもない。
「そう言うお前が重視しているのは、体のコ」
「あーーーー」
 その言葉は嵐の声と手でかき消された。叫びながら月夜の口を押さえている。意地の悪
い笑みをにまにまと浮かべて月夜はその手を振り払って片手をひらひらさせて自室に戻っ
た。
「あんたって、ほんと性格悪いのね」
 心底思ったといわんばかりの口調に月夜は笑った。朗らかな空気が流れる。
「別に、いつも背のことでからかわれてんだ。これぐらいやんねえとな。そこまでお人好
しじゃあねえよ」
 肩をすくめながら嵐の目線を思い出した。自分と対して変わってないような気がしたの
は気のせいだろうか。いきなりキョトンとした月夜を見て夕香は深くため息をついた。
「背丈はもう嵐と変わらないんじゃないの。むしろ大きいようなきがしたけど?」
「そうか?」
 いつの間にそんな大きくなったのだろう。確か、四月には十センチ差があったはずだ。
今は、もう十月。半年で十センチ以上伸びるのだろうか。
 確かに、同じぐらいのところにあった夕香の目線が今では鎖骨の辺りにある。
「うん。嵐よりおっきくなってる。だって嵐と並んだ時ここだもん」
 月夜の首筋辺りに触れて月夜はそのくすぐったさに身をすくませた。その反応に夕香の
目が光った。
「もしかして首駄目な方?」
 からかうような響きがある言葉に月夜はふてくされて背を向けた。その隙を夕香は見逃
さなかった。月夜が嫌な予感を感じたときには遅かった。夕香は首の付け根を狙って月夜
のうなじに襲い掛かった。
 月夜は体を竦ませてしゃがみ込んで振り払おうとしたが振り払えずにそのまま畳にコロ
ンと転がった。それを追いかけて夕香も膝立ちになって月夜の首を攻め続ける。
「いい加減にしろ」
 月夜がついに切れてその手を振り払って夕香を押し倒した。息がかかるほど近くに在る
互いの顔に暫し見つめ合って真っ赤になった。
 月夜はぱっと手を離して夕香に背を向けた。はあはあと息を荒くさせて顔を紅くさせて
いる月夜を見て夕香はなんともいえない艶かしさがあったのを感じて顔を紅くさせた。
「ほんと弱いんだ」
「うるせーな」
 背を向けたまま月夜は呟いた。夕香は先ほどまでかなり空気が重かったのになぜここま
で一気に空気が変わるのだろうとふと思った。それが彼の力なのだろう。もう、気に病む
心は薄れている。
「んで、これからどうするんだ? あっちにかえれないし」
「どうしようね。あたしたちは確実に指名手配だよね。術師の連中全て敵に回したってこ
とよね。嵐達は」
「危ないだろう。式神を放すのが一番だが、霊気を探られれば終りだし、兄貴が一番かな」
「使って平気?」
「兄貴は兄貴。可愛い弟が危機なんだから働いてくれないと」
 そう言って肩をすくめて片目を瞑る月夜に夕香はぽかんとした。そして月夜はわざとら
しく扉を振り返った。
「ねえ? 昌也兄さん?」
 扉から現れたのはいつもの着流し姿ではないスーツ姿の呆れた顔をした昌也だった。軽
そうな茶髪がとても危ない人に見えるが、心なしかそのスーツ姿は制服姿の月夜に似てい
る。
「異母兄弟であるわけだから親族などしか兄弟としか分からない。従兄とか他人の空似で
通るからね。ということで、宜しく」
 ボロボロで血だらけの服で月夜は言った。そう言えばこちらは着替えていない。昌也は
深く溜め息をついて頷いた。
「探査用の犬神貸してくれると」
「出来ない。とりあえず、使い魔だな。自分の居るだろう」
 まあなと返すと昌也は現世に向かった。その背を見送って月夜は深く溜め息を吐いた。
「とりあえず、風呂入ってくるわ。血だらけで気持ち悪いし、臭いし」
 そう言うと部屋を出て行った。部屋には夕香が残った。



←BACK                                   NEXT⇒